フィクションをスポイルする鑑賞態度

フィクションをスポイルする鑑賞態度について考えることがある。私はフィクションに心酔したり打ちひしがれることがよくある。 ここでのフィクションはたんに物語であったり、キャラクター間の関係性についてであったり、あるいはビジュアル、絵に描かれたものそのものなど、 総合的に私が知覚できる体験全般のことを指すとしよう。こういったフィクションは、簡単な屁理屈で簡単に崩壊してしまうと思う。 例えば、これは崩壊というより正しく分解できる、という例だが、イラストはただの線と塗りの集合で、 それらはAfterEffectsというadobeのソフトで連番が動かされていて、アニメで差し込む光は撮影処理の段階で、 OpticalFlaresというプラグインが使われているだろう。ここで、手法や手の内を理解していることが、 フィクションを台無しにしていると言っているわけではない。実際に上手に組み立てられた作品を台無しにしているのは、 重箱の隅をつつくような態度で鑑賞する時である。SNSでキャラクターへの愛を熱弁している人に対して、「でもこれはただの絵だ」と冷やかす人が散見される。 彼らはクリティカルな言動を装い「いいね」を集め、まるでそれが完全に正しいかのように振る舞う。 しかし実際には、それが「ただの絵」であろうと、いや、ただの絵には多分な文脈やニュアンスと作家たちの魂が込められているだろう 。キャラクターを愛する人を小馬鹿にし、絵そのものを軽視し、物語を無視し、キャラクターの向こうの人間の存在を認めない、 そういった言動や態度を心底恨めしく思う。別にお出しされたものをそのまま絶賛しろと言っているわけではない。 ただ、フィクションにて提示された前提を発展させないと、「ただの絵だろう」などという鑑賞態度に陥るのではないか。 クリティカルな姿勢を取ろうとして、基本的に、こうした前提を破壊するような、スポイルする鑑賞態度には批判的な姿勢を取りたい。
しかし、こうしたスポイルする鑑賞態度を是とする、いや正確には有耶無耶に、曖昧にすることで鑑賞者の興味を惹いているコンテンツがある。 それがバーチャルユーチューバーである。VTuberは、バーチャルという自称の通りフィクションの一つと捉えるのが一つの解釈だろう。 VTuberを鑑賞する際に、フィクションとして鑑賞する際に倫理的に正しい前提は、 「中の人が居ない」だといえる。大半のVTuberは声優の存在を明かさず、インターネット上で匿名的に活動する。 しかし私や大半の視聴者が、キャラクターとされる平面的なイラストを介しながら実際に鑑賞しているのは、 もっとその奥のパーソンの部分であろう。通称「中の人」と呼ばれる、パーソンの領域は、 キャラクターとして公式に語られたガワや与えられた設定に基づく、データベースのような記号の消費はほどほどに、 そのキャラクター性を介して立ち現れるパーソンを観る鑑賞をする。私は、こうした倫理的に正しくないであろう、スポイルする消費を、 アニメや漫画においては批判的に捉えながら、ことVTuberに関しては、「元も子もない」鑑賞を進んで行っているのだ。

関連・参考
バーチャルYouTuberというフィクションをスポイルする鑑賞を愛していることについて